ドナ・レオン
コミッサリオ・ブルネッティ・シリーズ
出版された順とは、順序が前後したが、これで、現在出版されているブルネッティシリーズを全て読んだことになる。これからも年に一度くらいの割合でレオンは続編を出してくれると思うが、これ以上彼女の本が読めないのは少し寂しい気がする。
第八話。
原題:Fatal Remedies 「死に至る治療」
ドイツ語訳:In Sachen Signora Brunetti「ブルネッティ夫人の一件」
深夜、ヴェニスのマニン広場にひとりの女性が立っている。彼女は袋の中から手からはみだすくらいの大きさの石を取り出し、それを旅行代理店のショウウィンドウに向かって投げつけた。ガラスに大きな穴が開き、警報装置が鳴り響く。二人の警察官が到着し、そこに佇むこの女性を見つける。
警官が彼女に何か目撃しなかったかと尋ねる。
「誰かが石を投げつけたんです。」
その女性は答える。
「どんな男でしたか。」
警官の更なる問いに、
「男ではありません。」
彼女はその後、犯人の女性の人相を語る。
「四十代の前半で、髪は肩までのブロンド。黄土色のコートに、茶色のブーツ。」
警官が彼女を改めて見つめると、その記述はまさに彼女のものであった。警官は彼女を警察署へ連行し、彼女に身分証明書の提示を求める。そこに書かれていた名前は「パオラ・ブルネッティ」、彼女はブルネッティ警視の妻であったのだ。
警察からの連絡を受けたブルネッティは警察署に出向き、「何らかの誤解」ということで、事件をうやむやにしたまま妻を家に連れ帰る。
パオラがその旅行代理店の窓ガラスを破壊するほど激昂した反感の原因は、その代理店の企画する、アジア・アフリカの国々への売春ツアーである。単なる売春だけではなく、少女売春、あるいは幼児嗜虐趣味者への斡旋もやっているらしい。その旅行会社は「若いコンパニオン」、「自由な雰囲気のホテル」などの言葉をその宣伝文句に使って、セックスツアーへの参加者を募っていた。更に、数日前、ある雑誌の「幼児嗜虐趣味を持つ者は、子供を愛する者である」という記事に頭に来たパオラは、その怒りの矛先をこの旅行代理店に向け、夫に対し「何らかの行動を起こすこと」を宣言していた。ブルネッティはそれを本気には取っていなかったのだが、妻のパオラは自らの行為によって、それが口からの出まかせでないことを示したのである。
数日後、ブルテッティーが深夜に帰宅すると、またパオラがいない。あわてて警察署に電話を入れると、案の定、パオラは再び同じ旅行代理店のガラスを破壊し、警察に連行されていた。ブルネッティは怒りを抑えながら警察署に向かう。前回と違っていたのは、パオラを発見した警官がブルネッティに連絡が取れないため、彼の天敵、署長パッタの腹心スカルパに連絡をとり、彼がすでに調書をとっていた点である。もう不問にはできない。
翌朝、ブルネッティは署長のパッタに呼ばれる。パッタの部屋には旅行代理店の持ち主であるミトリとその弁護士が来ていた。ミトリはブルネッティに対して、彼が損害を支払うならば、事件を表沙汰にしないでおくと持ち駆られる。しかし、パオラの行為に対して、怒りの中にも共感を覚え始めていたブルネッティは、ミトリとの取り引きを拒否する。
その結果・・・事件は表沙汰となり、警察官の妻のスキャンダルとして、ブルネッティは新聞記者に追い回され、停職処分を受ける。
数日後、停職処分を受けて家に引きこもるブルネッティに警察署から電話がかかる。旅行代理店のオーナー、ミトリが何者かに絞殺されたと言う。そしてその死体の横には、セックスツアーと幼児虐待を非難する声明文が置かれていた。ブルネッティは警察署に駆けつける。事件を前に署長パッタも彼の復帰を認めざるを得ない状況になる。
検死の結果、殺されたミトリの爪に、僅かながら加害者のものと思われる皮膚の一部が残っていた。
ブルネッティは三つの方面から操作を進める。ひとつはパッタの秘書でコンピューターの「名手」エレットラに手を借りて、ミトリの事業と、金の出入りを洗うこと。また、これまで同じように「細い電線のようなもので後ろから絞殺された」というパターンの過去の事件の調査。そして、ブルネッティの十八番である、関係者の訪問と、彼らとの会話である。
ミトリの銀行口座には過去数年間に渡り、ケニア、カンボジア、スリランカ当の途上国から、まとまった入金があった。また、過去に同じ手口で殺人を犯した男が現在逃亡中であることも判明。それと並行して、殺されたミトリの、妻、義弟、弁護士、旅行代理店の店長などの証言から、彼の事業がだんだんと浮き彫りにされてくる。彼が、発展途上国を相手に巨利を貪っていた方法とは何なのか。それが解き明かされなければ、今回の殺人の真相は解明できない。
果たしてセックスツアーに対して怒る者の犯行なのか、それとも、声明文は単なるカムフラージュに過ぎないのか。
その鍵は原題の「死に至る治療」と言う言葉の中にある。
私の読後感であるが、まず、一番引っかかったのが、聡明で大学教授でもあるパオラが、何故、旅行代理店に対して石を投げつけるという行為に走ったのかと言うこと。それが、根本的な解決策や、代理店を裁く方法とはなりえないことを彼女は良く知っているはずである。「ラテン系女性の熱情」と言う説明をつけても、かなり無理のある設定のような気がする。
もちろんパオラの言わんとすることは良く分かる。旅行代理店のやっていることは「合法」であろう。ただ、「合法」であることが全て正義ではない。道徳的に許されないことが「合法」の場合もある。彼女は、それに許すべからざる「合法」に対して行動を起こしたのだ。
パオラはブルネッティに言う。
「結婚した相手が、結婚した当時と変わらないでいるといいなって思うの。」
「どういう意味だい。」
「グイド。あなたは結婚した頃、今は面白がって口にするようなことを真剣に信じていたわ。公正や正義ということ。また人間は正義に基づいて行動しなければいけないってこと。」
「俺は今でもそれを信じているよ。」
「いいえ、あなたが信じているのは正義ではなく法律よ。」
この言葉は現代社会にとって大きな意味を持つ。合法であること、裁判で無罪になったこと、それによって人間の行いが全てにおいて正当化されると考えるのは、愚かしいことなのである。
もうひとつの事件として、並行して話が進むイアコヴァンツオーノという男の話も少し不可解。彼は、ヴェニスに来たときに銀行強盗を目撃。犯人を特定するために警察に協力し証言台に立つと申し出る。しかし、直後に彼の妻はアパートの階段で墜落死する。彼に証言を諦めさせるための脅迫であるとも考えられる。しかし、その後、彼ら夫婦は仲が悪く、妻が死んだ当日、夫のアリバイがないことも分かる。ところが、この事件に対する真相は最後まで分からない。
笑わせるエピソードは、何と言っても、会議中に行われるビンゴゲームであろう。定例会議で、署長のパッタが長話をする。退屈する同僚たちにエレットラはビンゴゲームの紙を配る。そこには数字の代わりに「生産性」「合理化」など、上司が好んで使いそうな言葉が書いてある。後はビンゴと同じ。その言葉がパッタの口から出るたびに印をつけていき、縦横斜めが揃ったときに「ビンゴ!」と言うわけである。
今回も最後、犯人を追い詰めながら、するりと逃げられ、いつものように不完全燃焼で終わる・・・・と思いきや、最後のまた大逆転があり、久しぶりにブルネッティの勝利が暗示されており、その意味では読後感はよい。