ドナ・レオン

コミッサリオ・ブルネッティ・シリーズ

 

 第十話は初めてドイツ語訳ではなく、英語の原文で読んだ。英語での出版が二〇〇二年で、二〇〇二年の五月現在、まだドイツ語訳が出ていなかったからである。基本的に、英語で読んでも、ドイツ語で読んでも、ブルネッティとパオラ、彼の同僚との会話から受ける印象は同じであった。これは、もともとイタリア語でなされているはずの会話を、英語なりドイツ語なりに訳してある、という気分で読んでいるからであろう。普通、英語の本をドイツ語訳で、あるいはドイツ語の本を英語訳で読むと、少しニュアンスにずれが生じるものだが、不思議にそれは感じなかった。

 

第十話。

原題:A Sea of Troubles 「苦難の海」

ドイツ語訳題:Das Gesetz der Lagune 「ラグーンの掟」

 

 

今回、ブルネッティの戦う相手、それは田舎の閉鎖社会である。これまで、教会、銀行、政治家、貴族などの「権力」と戦ってきたブルネッティであるが、今回の敵は弱者の集合体という、少し変わった、つかみどころのない相手である。 従って、「権力と戦う男、ブルネッティ」というこれまでのイメージから少し離れた筋立てである。

 

ヴェニスからそれほど遠くない場所に、ペレストリーナという細長い半島がある。住民の殆どが漁業に従事しており、夏場は新鮮な魚貝料理を求めて観光客が集まる。ある初夏の夜半、漁港に係留してある漁船の一隻から火の手が上がる。燃料タンクが爆発する大音響を残して、漁船は港の底に沈む。沈んだその漁船の中から、船の持ち主のボッティンと息子のマルコの死体が発見された。二人は船が沈没する前にすでに何者かに殺害されていた。

ヴェニス警察のブルネッティ警視と部下のヴィアネロはペレストリーナを訪れ、聞き込みを始める。しかし、漁村は閉鎖社会である。住民は「よそ者」に対して極度に警戒心が強く、お互いに牽制しあって、なかなか捜査の糸口になるような証言をしない。レストランのウェイターから殺されたボッティンがもうひとりの漁師スパディーニと喧嘩をしたことがあること、店の女主人から、父親のボッティンは皆から嫌われていたが、息子のマルコは皆から好かれていた、という証言を得たにすぎない。

捜査が行き詰りかけたところで、ブルネッティの同僚で協力者、署長秘書のエレットラが彼にある提案を行う。彼女は翌週から休暇に入るが、ペレストリーナに住む従姉のもとで休暇を過ごし、当地で極秘に捜査をしようということである。ブルネッティは最初、殺人事件の起きた土地にエレットラひとりを向かわせることに反対するが、彼女に押し切られてしまう。エレットラはペレストリーナに向かい、ブルネッティは若い部下のプチェッティを、レストランのウェイターとして当地に潜入させる。

ところがエレットラはペレストリーナで、大学中退と名乗る若いインテリの漁師カルロ・タルゲッタと恋に落ちてしまい、捜査どころではない。ブルネッティに証言をしたウェイターは行方不明になり、店の女主人は死体となり漁船の網にかかる。ブルネッティとヴィアネロの例の友人、知人、縁故関係を総動員した捜査により、殺されたボッティンの喧嘩の相手スパディーニが二年前、財務警察からの税金のごまかしに対する追加徴収のために自分の船を失ったこと、エレットラの新しい恋人タルゲッタが二年前財務警察を免職となっていることを知る。

殺されたボッティン親子、殺された店の女主人、スパディーニ、タリゲッタ、彼らの名前を一枚の紙に書き、その関係を推理するブルネッティであった。なぜ、タルゲッタが財務警察を去らねばならなかったか。その「鍵」を彼はついに得る・・・

 

いつもは、エレットラがコンピュータで捜査に必要な情報を探し出してくれるのであるが、今回はエレットラがいない。ブルネッティの情報収集は「エレットラ以前」の縁故関係を利用した、以前のものに戻る。

『ブルネッティは、カードをくるように、自分が他人に施した好意と、他人が自分に施した好意を思い浮かべた。この件についてあなたが私に情報を与えてくれたので、私はあなたにその件についての情報を与えましょう。あなたがくれたこれについて、私は別のこれでお返ししましょう。あなたが私の従兄について推薦書を書いてくれたので、私はあなたの船の係留許可証を今週中に配慮しましょう。』

これまでの、他人と自分との間の損得関係のバランスを、カードのようにくっていき、自分に情報を提供してくれそうな相手を探す。それがヴェニス風の捜査の基本である。

エレットラ、ブルネッティ、パオラの三人の関係も面白い。新しい恋人ができたエレットラに対してブルネッティは嫉妬を覚える。エレットラに打ち込むブルネッティに対してパオラが嫉妬を覚える。私もそうだが、いつも一緒に仕事をしている同僚の女性に恋人ができたと聞くと、それを祝福するというより何となく嫉妬が先にたつ。夫が同僚の女性を誉めると妻は何となく嫉妬を感じる。異性の同僚という、配偶者以上に長時間を一緒に過ごす不思議で危うい男女関係の描写が面白い。

「ハリー・ポッター」が登場する箇所がひとつある。エレットラをペレストリーナに向かわせることに対し、パオラがブルネッティに対して、

「彼女に『姿を隠すマント』(a cloak of invisibility)でも着せていくつもり?」

と、問い詰める。この父親の形見のこのマントを着て、ハリーは活躍するのである。

 

 イタリアには何故か、三つの警察組織が存在する。ブルネッティの属するのはPolizia(国家警察)のQuestura(県警本部)である。この他にCarabinieri(国防省警察)とGuardia di finanza (財務警察)がある。このうち、国家警察と国防警察の活動は完全に重複していると思う。しかも、両者はうまく協調しているとは思えない。最初の事件が起きたとき、署長で上司のパッタはブルネッティに対して、

「簡単な事件なら点数稼ぎのために引き受けて、難しい事件なら国防省警察に任せておけ。」

と言う。最後にブルネッティが助けを求めるために一一二番(日本で言う一一〇番)に電話をするが、電話が国防省警察につながる。ブルネッティが自分の国家警察での役職を言うと、電話を取った警官は

「それなら自分のところに頼みなさいよ。」

と言う。こんな調子で、果たしてイタリアの警察機構がきちんと作動しているのか不思議になる。何故、そもそも警察がふたつあるか。不思議な国である。

 

 ブルネッティ、部下の巡査部長ヴィアネロ、秘書のエレットラ、ボートの運転手ボンズアン、これまでこの四人でタッグを組んで戦ってきたが、今回このうちのひとりが命を落とす。読者として寂しいことである。

 そして、今回一連の殺人事件が解決し、犯人が裁きをうけるのかと言う点、またまた疑問符がついたままなのである。