ドナ・レオン

コミッサリオ・ブルネッティ・シリーズ

 

 イタリア在住のアメリカ人の女流作家ドナ・レオンの描く、ヴェニスを舞台にした犯罪小説のシリーズである。主人公はヴェニスの地元警察に勤めるブルネッティ警視(コミッサリオは警視、署長の次の位置らしい)。

私がこのシリーズを読むようになったきっかけは、シリーズのうちふたつがテレビ化され、ドイツで放映されたことによる。確かドイツ人俳優が主要な登場人物を演じ、ドイツ語での放送であった。ヴェニスの町の描写が印象にのこり、主人公のコミッサリオ役の控えめな演技にも好感が持てた。ただ、筋の展開が複雑で、筋を追いきれなかったが。アメリカ人作家の小説をドイツ語の翻訳で読むのも変だが、とりあえず、日本語の次に読むスピードが速いドイツ語で読み始めることにした。

 

 

第一話。

原題:Death at La Fenice 「死のフェニーチェ劇場」

ドイツ語訳:Venezianisches Finale「ヴェネチア風終幕」

 

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 ヴェニスの歌劇場フェニーチェ劇場。歌劇「トラヴィアータ」の終幕が始まろうとしている。ところが指揮者が現れない。稀代の名指揮者と呼ばれるドイツ人のヘルムート・ヴェラウアーはそのとき楽屋で青酸カリの混ざったコーヒーを飲み倒れていた。

 ヴェニス警察のブルネッティ警視が殺人事件の捜査を担当する。

 ブルネッティを巡る家族の描写、彼がインタビューする関係者の描写、そしてヴェニスの町の描写はものすごく丁寧である。彼にはパオラという英語教師の聡明な妻と、思春期を迎えたふたりの子供がいる。古いアパートの最上階に住んでいる。パオラの父母、つまり彼の義父母はとてつもない金持ちで、何十人をも招待したパーティーを催すことのできる屋敷には、一体いくつ部屋があるのか見当さえつかない。上流社会の華やかな雰囲気が、ブルネッティを義父母から疎遠にさせている。彼は事件の解決へのヒントを妻や義父母から得ることになる。

 

 ブルネッティの捜査。それはひたすら関係者との会話である。「何でも気がついたことをお話ください。」「些細なことでもいいですから。」と切り出して、演出家、女性歌手、レスビアンと噂される歌手の女友達、指揮者の妻、昔指揮者の下で歌ったことのある老婆などと会話を重ねていく。彼らの証言により「今世紀最大の指揮者」と言われた被害者の、その崇高な芸術性とは裏腹の、人間性が浮かび上がってくるのである。彼の捜査方法は根気のいるものだが、読者にも相当の忍耐力が要求される。アクション場面一切なし、劇的な場面一切なしという展開の中、ひたすらブルネッティとその相手の会話を追っていかねばならない。その会話自体は興味深く、退屈なものではないのだが、なにしろ根気がいる。この本を読まれた日本人が「なにも起こらない、退屈な小説」と評されていたが、仮に、ヴェニスの町や西洋音楽に全然興味のない人が、いつまでも続く町の描写や登場人物の語る音楽論を読まされたら、やはり退屈以外の何物でもないであろう。幸いにして、私はヴェニスの町も、クラシック音楽も好きなので、それほど苦にならなかったが。

 

「ヴェニスでは警察もボートで出動する。」という一言が、車が一台もない町の特徴を表している。次々と出てくるイタリア語の地名も何となく響きがいい。作者はヴェニスの建物、そこに住む人々、気候、良いところも悪いところも実に丁寧に描いている。登場人物が窓際に立ったとき、その窓からサン・マルコ寺院の塔が垣間見えたとか、開けた放した窓からどこそこ教会の鐘の音が聞こえてきたとか、いたるところにヴェニスの風景の断片が挿みこまれている。また食事に対する描写も非常に詳しい。この小説を単に推理小説として捕らえるならば、ここまでやらなくてもいいと思う。やりすぎである。反面、イタリアとイタリア人に興味のある人にとっては、その描写が楽しい。

 

 最後に、芸術と人間性について考えてみたい。被害者の指揮者ヴェラウアーは「マエストロ・名人」と呼ばれ、その芸術は誰の目からも、いや耳からも尊敬されるべきものであった。しかし、彼の人間性と過去が明らかになるにつれて、(それは天才の持つ独善性や、ナチス時代の所業なのであるが)彼は殺されて当然の人間ではないかと言う気にさえなってくる。これは単に私の発想の飛躍に過ぎないが、私がそのとき感じたのは「美しい心を持つ人のみが、本当に美しい音楽を奏でることができる」という学校の先生が言いそうな言葉に対する疑問である。ナチスのユダヤ人収容所で、「血も涙もない」ナチスの将校がピアノに向かってショパンを弾き始める。その美しさに通り過ぎたユダヤ人が驚いたというエピソードを聞いたことがある。それに似ている。「悪魔」であっても「天使」の業を使える。それゆえに芸術の奥深さがあるのであろうか。

 

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