スミレの選択
夜明け前の静かな時間。
六月二十四日。昨夜は、隣で寝ているワタルのイビキで何度も目が覚める。アパートメントには寝室が二つある。前夜、レストランから帰ってから「部屋割り」を巡る家族会議があった。その際、スミレが、
「パパとお兄ちゃんはイビキをかくので一緒に寝たくない。」
と強行に主張し、結局ひとつの寝室はスミレと妻、もうひとつの寝室は息子と僕が使うことになった。しかし、スミレの判断は的確だった。ワタルはもともとイビキをかく「タチ」だが、その夜は少し風邪気味で、鼻が詰まっているせいか、特にすごかった。ロンドンを発つ前の週末、ワタルのガールフレンド、ミランダが遊びに来た。ワタルと彼女は、大学の卒業試験が終わってから、イタリアのシシリー島へ出かけていた。彼女が、
「ワタルのイビキが余りにうるさいので、耳栓をして寝てたの。」
と言っていたのを思い出す。さもありなん。余りにもうるさくて眠れないので、鼻をつまんだり、身体を押して少し横向けたりする。彼の身体が横を向くと、イビキの音が少しは低減されるようだ。
翌朝、起きてきたワタルに、
「きみのイビキがうるさくて昨夜はよく眠れなかったぞ。」
と言うと、
「パパだって僕が眠る前にイビキをかいていて、うるさくて寝付けなかったぞ。」
とのこと。なるほど、お互い様なのね。イビキをかいている本人は、眠っているのだから分からないのだ。いずれにせよ、「スミレの選択」は正しかったことが証明された。
「美人は三日で飽きる、不美人は三日で慣れる。」
という格言を聞いたことがある。(あまり関係ないかな。)ともかく、僕が言いたかったのは、人間の適応力は素晴らしいということ。三日も経つと息子のイビキが、「子守唄」とはいかないまでも、全く気にならなくなった。
数年前、同じくギリシアでも、アドリア海側のコルフ島で過ごしたときは、蚊に悩まされた。ここクレタ島は、蚊が少ないようだ。乾燥しているからだろうか、それとも海に近いからだろうか。念のために「金鳥蚊取り線香」を持参したが、それも不要かも知れない。これまでに過ごしたことのある、ポルトガル、インド、ソロモン諸島、日本などの経験から言うと、蚊は暑い土地での共通の悩みだと思っていた。それがいないというのは、暑い場所で過ごす上で、とてもラッキーなことだと思う。
六時に起きる。ロンドン時間ではまだ四時。しかし、不思議に眠くない。浜に出てみるとちょうど正面から太陽が昇るところだった。太陽が水平線から顔を出す直前の雲の輝きは美しい。そして、太陽の上端が水平線から顔を出すのは荘厳な一瞬だ。リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭を思い出す。妻も子供たちもまだ眠っている。明日はこの日の出を彼らにも見せてやらなければと思う。
そして、海の向こうから太陽が昇る。