「女スパイ」
ドイツ語題:Die Spionin
原題:A Espiã
2016年
<はじめに>
コヘーリョの偉い所は、世界中の何時の時代、どこの場所を舞台にした小説を書いても、まるでそこの国の人がその時代に書いたような、自然な印象を受けることだ。おそらく彼はそのために、膨大な時間を資料収集に費やしているのだと思う。第一次世界大戦中、スパイの罪で、フランスで処刑されたマタ・ハリの物語。彼女は本当にスパイだったのだろうか・・・
<ストーリー>
一九一七年十月十五日、早朝、パリ、サン・ラザール刑務所。十八人の男が訪れ、一人の女性を連れ出す。彼女は、自分の助命嘆願が認められなかったことを知る。男たちは、彼女を車で、ヴァンサンヌ兵舎へ連れて行く。そこでは銃を持った部隊が待機していた。彼女は、目隠しの布を拒否する。兵下たちが彼女を一斉に射撃し、処刑は終わる。スパイ罪で、処刑されたその女性は、マタ・ハリ、四十一歳であった。
マタ・ハリは、弁護士であるメトレ・ルクネに宛てた手紙を書いている。本来は楽観的な性格の彼女だが、今回は悲しい結末を予測していた。彼女は、自分が処刑されると分かったとき、その手紙をルクネに渡そうと考えていた。その手紙は、自分の娘に、母親のことを伝えるために、獄中で書き始めたものだった。
マタ・ハリは裁判で取り上げられた証拠は捏造で、裁判は操作されたものであると考えていた。他人を、特に男性を操作してきた自分が、最後はその犠牲になることは運命の悪戯だと彼女は思う。彼女がサロンで、男たちに語った話は、新しいものは何もなく、国家の機密と言えるようなものではなかった。彼女には、自分が、女性の解放のために先鞭を付けたという自負があった。永年に渡り、富と名声を欲しいままにしてきた女性が、最後は偽りの証言と、諫言によって、どんな最後を遂げたかを彼女は書き残したかった。自分は誤った時代に生まれてきた、後世で自分のことを認めてくれる人がいることを、彼女は願っていた。
ウィーンを何度目かに訪れたとき、私はフロイトが有名になっていることを知る。彼は、罪は全て両親にあると言っていた。私、マルガレータ・ツェレはオランダで生まれた。父はアダム・ツェレ、母親はアンチェと言った。両親は、お金で買えるものなら何でも私に与えてくれた。しかし、一八八九年、父が破産。直後に母も亡くなる。死の床で母は私にチューリップの種を渡した。母は、
「種自体は他の植物と似ていても、全く別の花が咲く。また、花は咲いても必ず散るが、種を残す。」
そう言って、これから何があっても、自分の人生を否定してはいけないことを私に告げた。
私は母の死後、ライデンの寄宿制の学校へ通い始めた。ところが、その学校の校長に、校長室で強姦されてしまう。私はそのことを誰にも話さなかった。しかし数年後、同級生と会う機会があったときに、他にも何人もの女性が校長により犯されていたことを知った。私はパリで、有名になってから、その校長行為を公にした。その事件の後、私にとってセックスは「愛」でなく、単なる「行為」となった。
ライデンは退屈な町で、私は一刻も早くそこを出ることを願っていた。ある日私は新聞の広告欄で次のようなものを見つける。それは、
「オランダ領東インドで勤務する将校が、将来の伴侶捜しのために一時帰国する。女性の心当たりのある方は連絡願いたい。」
というものであった。その将校はルドルフ・マクレオドという名前であった。私は二十一歳年長のその人物に手紙を書く。帰国したルドルフに私は会い、三度目に会った時、ルドルフは求婚してきた。三ヵ月後、私は彼と結婚式を挙げ、彼の勤務地であるオランダ領東インドへ向かう。
ジャワ島に住むようになり、夫のルドルフは残忍性を見せるようになった。彼は現地人の女性を囲ったが、私が少しでも別の男と話すと、嫉妬して暴力を振るった。彼のとのセックスも、学校の制服を着せられて、強姦の真似をする等、異常なものになっていった。長男が生まれるが、死ぬ。乳母による毒殺の噂が流れたが、その乳母も殺されてしまう。その後、娘が生まれる。
ルドルフの上司が、部下たちを地元の踊りの会に招待する。ダンスなど興味のないルドルフだが、上司の招待とあらば、妻の私を連れて出席せざるを得ない。その席で、私はルドルフの同僚アンドレアスと知り合う。(彼と話したことで、私はその夜夫からの折檻を受けることになるが。)その踊りの会で、私はジャワの民族舞踊に触れ、それに魅せられる。その踊りを見て、私は自分が過去の出来事から抜け出して、新しい次元に入っていくような気がした。その会の終わりにショッキングな出来事があった。アンドレアスの妻が、
「自分は愛されていない。」
と夫に詰め寄り、ピストルで自分の頭を撃って自殺したのだ。彼女は夫の腕の中で死ぬ。私はオランダへ戻る決心をする。アンドレアスの妻の血で洗礼を受けたように感じた。数日後、私は夫と娘と共に、オランダへ向かう船に乗っていた。
オランダへ向かう船の上で、私は幸せになりたいとは思っていなかった。これ以上みじめにならないことだけを願っていた。船を下りて列車がハーグに着いたとき、私はフランス大使館に出向く。そこで自分に興味を持った領事を利用し、フランスのヴィザとパリ行きの切符を得る。私は「オリエンタル・ダンサー」と自分の職業を告げる。領事は、東洋の事物に興味のあるギメという大学教授を私に紹介してくれた。名前を聞かれて、私は「マタ・ハリ」と答える。それはジャワ語で「太陽の眼」という意味であった。
パリに着いた私はその洗練された街並みと、国際的な雰囲気に圧倒される。そこで私は見渡せば見渡すほど自分を見失ってしまうような気になる。そんなとき、私は風で飛んだ帽子を拾ってあげたことがきっかけになり、ひとりの男性と話す機会が出来る。彼は私をカフェに誘う。彼は近々、フランスとドイツの間で戦争が起こりそうだという。自分に心酔したように話すその男と一緒にいて、私は少し自信を取り戻す。
私の踊りは、パリで好評を博す。新聞は私の踊りに、
「敏捷な野生動物のようなしなやかさがある。」
と評した。私は、自分が秘密を匂わせると、周囲の男たちが寄ってくることを感じていた。自分は、他の男たちを魅了し、他の女たちを妬ませるために生まれてきたとも感じた。しかし、同時に私は、オランダに残してきた娘に再会し、ふたりで色々なところへ行くことを夢見ていた。
私は、ギメと寝ることにより、最初の舞台に立つことに成功した。しかし、一度舞台に立つと、私は自分も観客も忘れ、神に自分を捧げることだけを考えていた。パリの観客は新しいものに飢えていた。私は何枚ものベールをまとい、それを一枚ずつ脱ぎ捨てていった。観客の興味は、最後どこまでいくのかということでもあった。私のダンスの最後に、シバ神の像の前で、オーガズムのように沈み込んでいった。舞台の後、私への拍手と喝采は止むことがなかった。
初舞台の後、私の踊りは評判となり、次々と公演の機会を得た。公演はその都度話題となり、「マタ・ハリ」の名前はパリ中、フランス中に広まっていった。ある日、私はギメ夫人から散歩に誘われる。ギメ夫人は、私のことを見抜いていた。
「あなたの踊りはオリエンタルなものではなく創作だ。あなたの踊りが『偽物』であることを見抜けない観客たちは皆馬鹿だ。しかし、私はそれを誰にも言わない。」
とギメ夫人は言った。そして、彼女からの忠告として、
「恋に落ちてはいけない。それは、自分に対するコントロールを失ってしまうから。また、有名になるのは簡単だが、それは長続きしない。」
と告げる。夫人の言葉で、私は過去の傷が再び血を流し始めたのを感じた。
私は、当時の新進気鋭の芸術家とも会う機会を持った。ギメの主催したパーティーで、私はピカソとモディリアーニと会った。ピカソは自分勝手な俗物であったが、モディリアーニは好感の目テル人物であった。彼は私に、
「目標を高く置き、それに向かって常に研鑽せよ。」
との忠告をくれる。
パリへ来て十二年が経った。私は蝶のように生活をした。私には、単に裸を見せるのではなく、それを芸術の域に高めたという自負があった。パリのオランピア劇場の舞台にも立った。多くの有名人が私の公演を見に来て、私はそれらの人々と親交を深めた。しかし、私が裁判にかけられたとき、その人々は私を助けてはくれなかった。
年齢を経るにつれ、新聞の論調もだんだんと私に批判的なものなってきた。私の踊りを真似る者が現れ、若い模倣者たちの方が注目を集めるようになった。私はアストルクと一緒に海辺に来ていた。彼は私の代理人であり、私の仕事のマネージメントをしいていた。その頃には、新聞に「マタ・ハリ」は単なる売春婦であり、芸術ではないと酷評されることが多かった。私自身、四十一歳になり、若さによる魅力を失っていることは自分でも痛いほど気付いていた。しかし、ベールを一枚ずつ脱ぎ去っていくという踊りは、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「サロメ」にも取り入れられていた。
私はあとどれくらい、女優、ダンサーとしてやっていけるかを考える。せいぜい五年というところだろう。アストルクは私がまだ魅力的で、まだ稼げるという。私はアストルクに初めて、自分の経歴を語った。私は自分の過去を他人に話し、暗闇の向こうに灯りが見えたような、心の傷が癒えたような気がした。
私はホテル・エリゼーで、陸軍大臣アドルフ・メシミーと一緒にいた。彼とベッドを共にした後であった。窓の外にはエッフェル塔が見える。メシミーは、今がフランスの繁栄期で、工業も農業も発展し、経済的にも文化的にも黄金期であると話す。私は、金と権力を与えてくれる男とは誰とも寝た。人を愛すること、人から愛されることはとうの昔に諦めていた。しかし、そのことを周囲の男たちには悟らせないテクニックや、男たちに自信を持たせるテクニックも身に付けていた。ある銀行家は私に、屋敷を買い与えていた。週末私はそこで過ごし、乗馬などを楽しむことができた。しかし、私は常に誰かに見張られているような気がしていた。そして、裁判の際に、実際私には尾行がついていたことを知る。
一九一四年七月の夕方、カフェでお茶を飲んでいると、ひとりの男が話しかけてくる。オランダ語かドイツ語訛りのフランス語である。男は私に、
「新しいことを体験してみたくないか。」
と尋ねてくる。私は、もちろん新しいことを知りたいと答える。その男は、フランスは繁栄しているように見えるが、実は危機に瀕しているという。彼は、私がフランスで酷評されていること、若い模倣者に取って代わられようとしていることも知っていた。その男フランツは私にベルリンに来ないかと誘う。私は、しばらく考えた後、ベルリン行きに同意をする。数日後、私はフランツとベルリンへ向かう列車に乗っていた。窓から、軍用列車で西へ向かう大勢のドイツ兵の姿が見えた。新聞は、二週間前にオーストリアの皇太子と后が、サラエボで暗殺されたニュースを伝えていた。
そもそも、ひとりの人間が、国と国との関係に影響を与えるような行為ができるのだろうか。私がベルリンに向かった日から、私はこれまで自分が弄んでいた世間に、自分が弄ばれることになる。私は助けもなしに、暗い森の中を歩いているような気分だった。ともかく、ベルリンの駅を降りてから自体は急展開を遂げた。
私は、数ヶ月に渡る練習をした後、初めてベルリンの舞台に立った。しかし、公演が始まった直後、兵士が劇場に押しかけ、公演にストップがかかる。何が起きたが分からないで立ちすくむ私に、フランツはあるだけの現金を渡すから、それを持って直ぐにドイツから立ち去るように言う。ドイツがフランスに対して宣戦を布告し、ドイツ軍は国境を越えてフランスに侵攻中だという。私は列車の中から見た、大量のドイツ兵が西へ向かう様子を思い出した。私は着の身着のままで、フランツの車で駅にたどり着く。そして、そこからアムステルダム行きの列車に乗る。フランツはハーグのドイツ領事館に知り合いがいるので、彼に会って便宜を図ってもらえと私に告げる。駅も、列車も、ドイツを出て故郷に帰る人々でごった返していた。駅で私は若い音から手紙を受け取る。その直後、その男は憲兵に逮捕された。彼はドイツの脱走兵だった。彼は、敵の兵士を殺したことに耐えられなくなり、軍隊を脱走し、妻に宛てた手紙を渡しに託したのであった。
私はそれから一年後、アムステルダムからハーグに移ることができた。オランダは中立国であった。自分のパトロンであった銀行家が、ハーグに部屋を借りてくれたからだ。しかし、彼は途中でその部屋の家賃を払うのを止めた。パリに戻りたかった私は、フランツが紹介してくれたハーグのドイツ領事館職員のクレーマーに連絡を取る。私は領事館でクレーマーと出会った。彼は、ベルギーとフランスの国境で、ドイツ軍とフランス軍が対峙し、多くの犠牲者が出ていることを憂慮していた。クレーマーは戦いを終わらせるためにも、私の助けが必要だと言った。クレーマーは私にいくばくかの金と透明のインクを渡される。何かあれば、その透明のインクで手紙を書くようにということだった。私は、そのインクを直ぐに捨ててしまった。私はH二十一というコードネームを貰った。そして、パスポートとフランスのヴィザを受け取り、英国経由でフランスに戻ることになった。パリへ戻った後のダンスの舞台の依頼も舞い込む。私は大きな権力が私の後ろで動いていることを感じるが、同時に私が常に監視されていることも感じる。
パリに戻った私は、催涙ガスで目を負傷したロシア人の兵士、ヴァディメ・デ・マスロフと知り合う。彼は私より二十歳年下であったが、私は初めて真に人を愛することを知ったと感じる。私は彼を何度も病院に見舞う。しかし、そのヴァディメでさえ、裁判の時、私のために有利になる証言はしてくれなかった。
私は、この手紙を保管して、娘が理解できる年齢になったとき、手渡して欲しいと願っている。私はオスカー・ワイルドの「サロメ」に興味を持っている。ワイルドは劇作家と同時に童話も書いた。彼は、恋人に送る赤いバラを捜している青年に同情し、自らの胸を突いてその血で赤いバラを作ったナイチンゲール(夜鳴鳥)の話を書いた。自らを犠牲にして作った赤いバラは、青年の恋人の気が変わり、結局は使われることがなかった。私は自分をそのナイチンゲールと重ね合わせている。
弁護士のメトレ・ルクネがマタ・ハリに宛てた手紙:
親愛なるマタ・ハリ。大統領は恩赦の嘆願を拒否し、十一時間後に、私は他の男たちとあなたを連れに行かねばならない。今夜は眠れないであろう。その時間を使って私はあなたにこの手紙を書いている。私は、かつて自分が愛した女性、あなたを救おうとした。しかし、それが出来なかった。膠着状態の戦場では、何十万人もの兵士が死んでいるのに、ひとりの女性の死を私は止めることができなかった。
一言で述べると、あなたは最悪の時に、最悪の人にコンタクトをした。それは、カウンタースパイ部門の長であるジォルジュ・ラドーだ。かれはドレフェス事件(一八九四年にフランスで起きた、当時フランス陸軍参謀本部勤務の大尉であったユダヤ人のアルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された冤罪事件)の責任者であり、同事件で失墜した威厳の快復を狙っていた。彼は、有名人であるあなたをスパイに仕立てることにより、失地回復を図ったのだ。ハーグのドイツ領事クレーマーはあなたとの出会いを特に何も得るもののない、否定的なものとして語っている。あなたが目を負傷したロシア人の兵士を見舞ったが、彼もあなたが麻薬をやっていたと証言している。ともかく、あなたの行動は、フランス側からもドイツ側からも常に監視されていた。あなたが二重スパイであったことは否定できない。しかし、お互いの見張る中で、あなたが法に触れるような諜報活動を出来たのだろうか。ラドーは本来、十分な証拠を握ってはいなかった。ラドーが証拠として法廷で挙げた事項は、矛盾に満ちたものばかりだった。
そんな状態を、決定的に悪くしたのは、あなたのついた数々の嘘である。あなたはオランダ領東インドの出身ではない。あなたは独身ではない・・・これらの嘘は、平和な時代には取るに足らないものだっただろう。しかし、戦争中には致命的なものとなる。特に戦時で、戦争を正当化し、戦争の悲惨さから民衆の目をそらすためのスケープゴートが必要なときには。
「戦争においては、人間の尊厳が常に最初に犠牲になる。親愛なるマタ・ハリ、既に私が述べたように、フランス軍の有能さをために、戦場で倒れていく幾万の若者の若者から世間の目をそらすために、誰かが身を捧げることになるのだ。」
私は通常、自分の依頼者のことを書いた新聞記事を集めたりはしない。しかし、あなたに関しては例外的に記事の切り抜きを行った。ひとつは、死刑判決の出たときの記事だった。あなたは、ヴェルダンへの渡航許可を求めていた。多分、目を負傷したロシア人の兵士に会いにいくためだったのだと思う。しかし、ヴェルダンで激戦が行われているというのは、当時軍事機密の属し、それをあなたが知っていたのは、何かのスパイ活動によるものであろうと書かれている。
もうひとつの新聞記事は、あなたが逮捕されときのものだ。刑事ピエール・ブシャドンがあなたの住むエリーゼ・パラス・ホテルのスイートを訪れたとき、あなたはまだガウンを着て、朝食をとっていた。あなたはまだ、夕方にはホテルに戻れると考えていた。逮捕状が渡されたとき、あなたは
「わたしは無罪よ!」
と叫び続けた。そもその、この主任捜査官のブシャトンは、パリの者なら誰もが知っている話なのだが、直前に妻を寝取られ、女性に対して激しい復讐心を抱いていた。また、あなたの入れられたサン・ラザール拘置所は、かつてはレプラ患者を収容する建物で、設備と環境の悪さでは定評があった。しばらくし、あなたは私を担当弁護士に指名し、私もそれを引き受けた。私は、あなたを病院の精神病棟に移すことを提言したが、認められなかった。私は、あなたがこれまで知り合いになった名士たちにコンタクトを取り、証言を求めた。しかし、全員があなたとの
この手紙が、あなたに読まれることはないと思っている。しかし、私は自分が人間としてやれることの全てをしたことを証明したいがために、この手紙を書いている。捜査が進むうちに、ラドーは証拠不足に悩み、立件が難しくなってきたことを感じる。彼は傍受したドイツ側の電報を証拠に使おうとするが、ドイツ側は既に「スパイH二十一」つまりあなたに対する期待も、興味も失っていた。あなたが収監されている拘置所の環境が劣悪なことは良く知っている。そこには女性の同権を叫ぶ女性闘士も入れられている。
私は少し眠ってしまった。あと三時間しかない。検察側は、あなたが湯水のように使っていた金の出所を探った。しかし、それが高名な、地位の高い男たちからのものであることを知り、捜査を止めてしまった。あなたと関係のあった男たちは、全て証言を拒否するか、あなたとの関係を否定した。結局検察側は、あなたにこの残酷な戦争の責任の一部を着せようとしたのだ。しかし、あなたは軍事法廷で有罪判決を受けた。これは平時では有り得ないことである。私は軍事法廷が、平時の法廷と全く違うことに最後まで気付かかかった。そのことを、あなたを助けられなかったことを、私は一生の間悔やみ続けると思う。しかし、検察側の不備は、将来きっと明るみに出ると確信する。
ギリシア神話に、夫の顔を見てはいけない妻の話がある。私はその妻とあなたを重ね合わせる。あなたは、現在の社会の約束事として、知ってはいけないことを知ってしまった。聖書で言われるように、無実な者も時には裁かれる・・・
<感想など>
この物語はふたつの手紙から成り立っている。死刑判決を受け、大統領の恩赦に最後の望みをつなぐマタ・ハリが、裁判で自分を弁護したメトレ・ルクネに宛てた手紙。彼女はその手紙を、自分が処刑されることになったばあいは弁護士に託し、いつか自分の娘に届くことを願って書いている。もうひとつ手紙は、マタ・ハリの死刑執行の命令を受けた弁護士のメトレ・ルクネが、マタ・ハリに伝えるために書いた手紙である。前者が娘の手に渡ったかどうか、後者をマタ・ハリが読んだかどうかには触れられていない。これらの手紙は、もちろん作者の創作である。このような長く、道筋立った手紙が、短時間で書けるわけはない。それが不自然と言えば不自然であるが、しかし、それは手紙形式の小説の宿命であろう。
米国でのOJシンプソンや、南アフリカのオスカー・ピストリウスの事件のように、有名人、かつてのヒーローが裁判にかけられると、衆目がそれに集中する。実際、マタ・ハリの事件もそのような社会現象だったのだろう。そして、彼女が売春まがいのことをやってきたことに対する女性からの非難、彼女の名声や贅沢な生活への妬み、彼女に手玉に取られた男性たちの復讐心、そのような国民感情が、裁判の結果に大きく影響したことは間違いない。
作者のテーマは明確である。戦争中は、その戦争を正当化するために、あるいは、戦争の残忍さから民衆の目をそらすために、スケープゴートが作られる。そのスケープゴートは、普段から皆が快く思っていない人々だとより好都合なのだ。(たとえばナチスドイツにおけるユダヤ人とか)最初は斬新な踊りで、パリ中の評判を取ったマタ・ハリも、いつしか「売春婦」、「ストリッパー」という評価に変わっていく。ホテルのスイートルームに滞在し続ける彼女の生活は人々の妬みの対象となる。彼女は、国家権力側から見ると、最高の条件を揃えたスケープゴートだったのだ。しかし、それらの不正は、歴史によって暴かれ、裁かれることを、作者は強調している。戦後の様子もエピローグとして書かれている。そう言った意味で、悲しい結末であるが、読後感は悪くない。
もうひとつ感じたのは、「熱しやすく冷めやすい」人々の話題とマスコミの評価である。マタ・ハリのオリエンタル風のダンスは、最初は熱狂を持って迎えられる。何枚ものベールをまとい、それを一枚ずつ脱ぎ捨てながら踊る、一種のストリップショウなのだが、最初は芸術として扱われ、各界の名士が見物に訪れ、マタ・ハリはパリのオランピア劇場の舞台にも上がる。その手法は、リヒャルト・シュトラウスのオペラ、「サロメ」にも取り入れられている。しかし、人々の興味の移り変わりは早く、数年後には彼女は飽きられ、もっと若い模倣者に取って代わられる。マスコミは、マタ・ハリを高級売春婦としてしか取り上げなくなる。私は、一時、熱狂的な人気を博したお笑い芸人たちが、わずか一、二か月で飽きられ、その後、消息も聞かなくなったことに思いを馳せる。
パウロ・コエーリョの小説の舞台、題材は多岐に渡る。「錬金術師」ではサハラ砂漠を「ヴェロニカは死ぬことにした」ではスロヴェニアを舞台にしている。今回は二十世紀初頭のパリ。多くの作家が、自分の故郷や住んだ場所から離れられない中、彼の勇気は称賛に値する。同時に、膨大な量の資料と、長時間の調査がその裏にあることを感じさせる。コエーリョの才能を、再認識させる作品である。
(2018年1月)