復活の日
昨年の九月、アムステルダム出張中、僕はいつものように、朝早くホテルの近くの自転車道をジョギングしていた。その時、背後から来た原付バイクに腕を引っ掛けられて転倒。一応「スットプ!」、「ハルト!」と英語とドイツ語で停まれと叫んでみたが、バイクはそのまま逃げ去り、転んだ拍子に僕は足首を痛めてしまった。
いつまで経っても足首の痛みが取れないので、ロンドンで医者に行った。靭帯が切れたのなら完治に四ヶ月程度かかるから、まあ気長に待ちなさいと言われた。その後、なかなか治らないのでヤキモキしたが、ドクターの見立ては正しく、四ヶ月目の十二月には痛みが和らぎだし、クリスマスの頃からまた走れるようになった。それ以来三ヶ月、少しずつ距離を伸ばし、走れない間に太った身体を三キロほど絞り込み、マラソンを走るまでにこぎつけたというわけだ。
さて、アンゲリカには一時五十メートルほど離された。しかし、それ以上は離されない。そして、彼女との距離が少しずつ詰まり始めた。距離は三十四キロ。残り八キロだ。この時点で、僕は自分が最後まで走れることを確信した。そして、これまで頑張らないように自分を抑えていた方針を転換して、頑張ってみることにした。
手始めに、先行するアンゲリカを目標に定め追跡を開始する。一キロほどで彼女に追いつく。今回は並走しないで、一気に抜き去る。
「このコンディションをとことん利用しないとね。」
と横に並んだときに、彼女が先程言った言葉を繰り返した。
「やっと、モトは真剣モードになったのね。」
と彼女は言った。
三十五キロを過ぎ、誰もが疲れている。歩き始めている人もいる。そんなランナーを何十人と一気に抜き去るのは気持ちが良い。抜くたびに、彼らから、エネルギーを吸い取るような気がする。もう迷いはない。疲れてはいるが、「頑張れ、頑張れ」と自分に言い聞かせ、前だけを見て走る。自分の気持ちがすごく「ハイ」になっているのが分かる。
旧市街に戻ると、観衆が増える。最後の数百メートルは人垣の間を走り、スタートしたマルクト広場のピンク色のゴシック建築の市庁舎の前でゴール。タイムは三時間四十二分。これまでで二番目のタイムだ。しかし、タイムはどうでも良かった。僕はゴールで、またマラソンを走れたことに、心からホッとしていた。僕は復活したのだ。
ゴールを抜けて出口に向かって歩いていると、リムさんが迎えてくれた。彼は僕より一分前にゴールしたそうだ。彼の顔は一面に白い塩が吹いていた。リムさんと抱き合って、健闘を称えあう。リムさんの友達に、ふたりで肩を組んでいる写真を撮ってもらった。振り向くと、アンゲリカがゴールしていた。僕は駆け寄って、彼女と抱き合った。自己記録を十分以上更新した彼女は満足そうだった。抱き合うという行為が、マラソンのゴールでは全然不自然じゃない。こんな高揚を味わえるのもマラソンならでは、と僕は思った。